稿:光嚴天皇
光嚴天皇 | |
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名諱 | 量仁 |
生卒 | 正和二年至貞治三年 |
在位 | 元弘元年年正慶二年 |
政權 | 日本國 |
陵墓 | 山國陵 |
先君 | 後醍醐天皇 |
嗣君 | 後二條天皇孫康仁親王 |
年號 | |
元弘、正慶 |
光嚴天皇,諱量仁(かずひと,Kazuhito),後伏見太上天皇第三子也。母皇后藤原寧子,號廣義門院[一]。
正和二年七月九日降誕[二]。因爲持明院統之正嫡,自叔父花園太上天皇受學問[三]。花園太上天皇授『誡太子書』者、今上皇帝德仁愛讀之書也。嘉曆元年七月二十四日,立後醍醐天皇太子[四]。
元弘元年八月二十四日,後醍醐天皇,謀打倒鎌󠄁倉幕府,而出京師[五]。仍光嚴天皇嗣大統。于時元弘元年九月二十日[六]。
十月,先帝被捕。六日,授光嚴天皇神器[七]。先帝被處流刑、遷隠岐島。元弘二年三月二十二日,於太政官廳,宣明卽位[八]。四月二十八日、改元弘二年,爲正慶元年[九]。正慶元年十一月十三日、遂大嘗祭[一〇]。
而正慶二年三月,先帝攻京師[一一]。五月七日、官軍大將源尊󠄁氏,背而襲光嚴天皇[一二]。仍光嚴天皇及後伏見太上天皇等,東遷[一三]。然而,於近江國番場宿,不能先途。兵等四百三十餘人自害[一四]。光嚴天皇被捕。渡先帝神器[一五]。後醍醐天皇、廢正慶,復元弘三年[一六]。
五月二十八日,光嚴天皇等歸京。後伏見太上天皇剃髮入佛門。太上天皇勸剃髮光嚴天皇。而光嚴天皇拒絕[一七]。
先帝重祚。廢光嚴天皇[一八]。元弘三年十二月,後醍醐天皇奉尊號於光嚴天皇[一九]。詔曰,「皇太子謙󠄁讓合道,惠澤普及。今避儲位於靑闈之月。伴󠄁仙遊於射岫之雲。仍雖無准的之舊踨,加以禮制崇敬,宜上尊號,爲太上天皇。」亦令後醍醐天皇女懽子爲光厳太上天皇之后[二〇]。
而後醍醐天皇重失政,亂天下。建武二年、光嚴太上天皇與藤原公宗、欲廢後醍醐天皇[二一]。然有密吿、藤原公宗被誅殺[二二]。平時行續之。仍尊氏討伐,而背。然而敗官軍源義貞,逃九州[二三]。
於是,光嚴太上天皇命尊氏義貞之討伐[二四]。于時建武三年二月。延元元年三月,光嚴太上天皇、納宸筆之般若波羅蜜多心經於宗廟[二五]。奧書曰,「延元元年三月二十五日,爲奉納八幡大菩薩書寫之。願以一卷書寫之功德,令救三界流轉之衆生焉!」[二六]
尊氏掀紅旗,席捲四方、攻京師。建武三年八月十五日、太上天皇令弟豐仁卽帝位[二七]。先帝後醍醐天皇逃比叡山、而十一月、先帝降伏。授新帝神器[二八]。
十二月、先帝遷於大和國吉野、親稱今上皇帝、啓南朝。對而京師朝廷者、謂北朝。則生二君於日本國、相爭也[二九]。
數年而凡決雌雄。北朝優也[三〇]。太上天皇、和將軍而執天下政務。定『曆應雜訴法』、整訴訟制度[三一]。親撰『風雅和歌集』、而欲隆盛文道[三二]。建立安國寺於全土[三三]、亦建立天龍寺[三四]。貞和四年五月六日、納宸翰願文於伊勢神宮。曰、「海內淸平、民間安泰、帝道歸素朴、武運類金石。」十月二十七日、光明天皇(豐仁)脫屣。光嚴太上天皇長子興仁(崇光天皇)卽位[三五]。光嚴太上天皇執政及十五年。雖亂世、京師得平靜[三六]。
然而、有源將軍家内訌。將軍弟源直義與將軍執事高階師直相憎[三七]。光嚴太上天皇欲令和、而不結實[三八]。源將軍好師直。乃源將軍與源直義、相爭也[三七]。仍南朝復勢。勸應二年十一月七日、源將軍再背、降伏於南朝[三九]。乃被廢北朝之崇光天皇、被停光嚴太上天皇執政[四〇]。
勸應三年閏二月二十日、南朝再戰、侵攻京師[四一]。將軍等逃亡、不伴光嚴太上天皇等[四二]。被拉太上天皇等於南方[四三]。京都大混亂。凡朝廷之儀式等被止歟[四四]。源將軍及雲客等、且令光嚴太上天皇第二子彌仁(後光嚴天皇)卽位。光嚴太上天皇、欲脱出南朝、即位皇太子直仁[四五]。光嚴太上天皇失望󠄂。八月八日、光嚴太上天皇剃髮入釋家[四六]。
延文二年二月十八日、歸京[四七]。貞治二年、建立常照皇寺於丹波國。隱棲同地[四八]。修禪宗。後開眼[四九]。
貞治三年七月七日、崩。於常照皇寺。寶算五十二也[五〇]。有遺誡及辭世。
遺誡曰、「老僧滅後、莫倣尋常式、以煩作荼毗等儀式。只須就山阿収瘞。松栢自生於塚上、風雲時往來者、爲予之好賓、甚所愛也。如其山民村童等欲結聚砂之戲縁、構小塔、不過尺寸、亦不及禁之。此一節只爲不欲動衆人労其勞力。但要省略耳。其或便於省力、則火葬又可也。一切法事不須爲之。」[五一]
辭世曰、「謝有爲報、披無相衣、經行坐臥、千佛威儀。」[五一]
據
[纂]- ↑ 図書寮 1947, p. 1.
- ↑ 図書寮 1947, p. 2.
- ↑ 深津 2014, p. 43.
- ↑ 飯倉 2002, p. 47.
- ↑ 深津 2014, p. 68.
- ↑ 図書寮 1947, p. 68.
- ↑ 飯倉 2002, p. 58.
- ↑ 図書寮 1947, p. 89.
- ↑ 深津 2014, p. 73.
- ↑ 図書寮 1947, p. 124.
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- ↑ 飯倉 2002, pp. 87-88.
- ↑ 深津 2014, p. 84.
- ↑ 深津 2014, pp. 87-88.
- ↑ 深津 2014, p. 88.
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