後醍醐天皇
外觀
後醍醐天皇 | |
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名諱 | 尊治 |
生卒 | 正應元年至延元四年 |
在位 | 文保二年至延元四年 |
政權 | 日本國 |
諡號 | 後醍醐 |
陵墓 | 塔尾陵 |
先君 | 花園天皇 |
嗣君 | 後村上天皇 |
年號 | |
元應、元亨、正中、嘉曆、元德、元弘、建武、延元 |
後醍醐天皇諱尊治。後宇多天皇第二皇子也。母談天門院五辻氏。[一]文保二年,年三十一,即皇帝位。帝在位,追延喜、天曆之舊跡。民德之。[二]是歲秋八月三日,太政大臣西園寺實兼女入弘徽殿,備爲后妃。元德二年春二月四日,詔中納言萬里小路藤房,議行幸東大寺興福寺。遂行之。有司百僚扈從。元弘二年春三月七日,帝移幸隱岐國。千葉貞胤、佐佐木道譽等以五百騎警衛。[三]三年,帝與源忠顯自自隱岐千波湊出幸出雲、伯耆國,登舟。佐佐木清高追及,帝匿船底,人皆不覺,乃得全。至伯耆國大坂湊。豪傑名和長年奉帝唱義。[四]延元三年秋八月九日,帝不豫。遺詔滅亡朝敵。立第七皇子憲良爲儲。崩於吉野。葬於吉野山麓之林中。[五]
攷
[纂]- 底本《太平記》
- ↑ 《太平記卷一》此(この)時の帝(みかど)後醍醐(ごだいごの)天王と申せしは、後宇多院(ごうだのゐん)の第二(だいに)の皇子(わうじ)、談天門院(だつてんもんゐん)の御腹(おんはら)にて御座(おは)せしを
- ↑ 《太平記卷一》延喜天暦(えんぎてんりやく)の跡(あと)を追(おは)れしかば、四海風(ふう)を望(のぞん)で悦び、万民(ばんみん)徳に帰(き)して楽(たのし)む。
- ↑ 《太平記卷四》三月七日、千葉介(ちばのすけ)貞胤(さだたね)、小山(をやまの)五郎左衛門、佐々木(ささきの)佐渡判官(さどのはうぐわん)入道々誉(だうよ)五百(ごひやく)余騎(よき)にて、路次(ろし)を警固仕(けいごつかまつり)て先帝(せんてい)を隠岐(おきの)国(くに)へ遷(うつ)し奉る。
- ↑ 《大日本史卷一百六十六》帝遲之數日不至,乃與忠顯謀,託以三位局產期在近,移就外舍,乘昏而出……佐佐木清高發舸追及,人皆驚愕,不知所為……舟人乃匿帝及忠顯船底,覆以薧魚,使柁工、水手列立其上盪櫓,而身坐釣。賊上御船褊索,舟人徐問曰:「公等何索?」賊曰:「主上逃去,必在海中。」……漂蕩數日,經出雲,到伯耆大坂湊。忠顯登岸,問路人曰:「此地亦有知名武人邪?」人答以名和長年。忠顯遣使造其家,宣旨委託。長年即起兵,奉帝幸船上山,軍勢大振。
- ↑ 《太平記卷二十一》南朝の年号延元三年八月九日(ここのか)より、吉野の主上(しゆしやう)御不予(ごふよ)の御事(おんこと)有(あり)けるが……吉野山の麓、蔵王堂(ざわうだう)の艮(うしとら)なる林の奥に、円丘(ゑんきう)を高く築(つい)て、北向(きたむき)に奉葬。